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コラム

存在の豊かなる広がり ― Study:大阪関西国際芸術祭 2025「第2章:人・命への考察」に寄せて|三宅敦大 (キュレトリアル・コレクティブ「HB.」共同ディレクター)

コラム/column 2025-09-11

展示風景:photo by  Kohei Matsumura

 

三宅敦大プロフィール写真

三宅敦大

(キュレトリアル・コレクティブ「HB.」共同ディレクター)

 

 会場の奥で壁に伏せった女性がいる。彼女はどうしたのだろうかという考えが一瞬頭をよぎるが、すぐにこの展覧会がハイパーリアリズム彫刻の展示であったことを思い出す。そして、女性が作品かもしれないという考えと、生きた人間かもしれないという考えが巡りだす。この時、鑑賞者の脳内にはシュレディンガーの猫1のように2つのリアリティが存在している。

 

ダニエル・ファーマン《Caroline》(2014)
photo by Atsuhiro Miyake

 大阪文化館・天保山にて開催されている「リシェイプド・リアリティ:ハイパーリアリズム彫刻の50年」は、Study:大阪関西国際芸術祭 2025の「第2章:人・命への考察」にあたる展覧会である。同展は、27組のアーティストによる39の作品を通して、1960年代後半から70年代前半に始まったとされるハイパーリアリズムの今日までの流れを総観しようとするものである。
 この運動の先駆者でもあるドウェイン・ハンソンの《Bodybuilder》(1989-90)や、ヨーロッパにて同運動を牽引したジャック・ヴァーデュインの《Pat & Veerle》(1974)は、そのフォルムや肌の質感、表情の点で非常に精巧な表現をしている。

 

1:1935年にオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが発表した、猫を使った思考実験。箱の中に猫と放射性物質、検出器、毒ガス発生装置を入れ、放射性物質が崩壊すると毒ガスが放出されて猫は死に、崩壊しなければ猫は生き残る。量子力学では観測するまで粒子が複数の状態を同時にとるため、箱を開けて観測するまで猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なり合っていると考えられ、このマクロな対象に量子力学の理論を適用することの不可解さを指摘したもの。

 

左から:ドウェイン・ハンソン《Bodybuilder》(1989-90)/ ダニエル・ファーマン《Caroline》(2014)/ ジャック・ヴァーデュインの《Pat & Veerle》(1974)
photo by Kohei Matsumura

 人間のクローンのような作品を鑑賞する体験については、1835年にロンドンに創立されたマダム・タッソー館にある蝋人形たちを想起する人もいるだろう。蝋人形の文化は、デスマスクに端を発していると言われる。そして権力者の偉大さを象徴する目的で活用されたり、解剖学の研究、教育のために活用された事例があげられる。
 だが、ハンソンやヴァーデュインの作品を含め、ハイパーリアリズムのモチーフは有名人や神話や宗教に登場するような人物ではなく、現代社会に暮らす一般的な人物であることが多い。この点において、マダム・タッソー館とは明確に異なる。ハイパーリアリズムにとって重要な点は、対象をリアルに表現することであると同時に、人々のリアリティそのものを表現し、リアリティについての思考を喚起することなのである。
 この意味で、服を着たままの生きた人間の型取り技法を確立し、人間とそれを取り巻く環境を彫刻作品のモチーフとしたジョージ・シーガルの作品は、モノクロームではあるが、ハイパーリアリズムとルーツを共有していると言えるだろうか。

 

ジョージ・シーガル《Early Morning: Woman Lying on Bed》(1992)
photo by Atsuhiro Miyake

 また、シーガルの確立した型取り技術は、その後の表現に大きな影響を与えたが、素材や技術の進歩は、対象を如何にリアルに表現できるかという点に大きく関わる。
 この展覧会に出展されている作品にも様々な素材が使われている。例えば、ブライアン・ブース・クレイグやロバート・グラハム、ジョン・デ・アンドレアらの作品はブロンズでできている。ブロンズは、その硬さ故に肌のディテールまでは再現できないが、その分フォルムが強調される。また、ハンソンや、ヴァーデュインのように樹脂を使用する場合には、型取りの際に肌の質感まである程度再現することもできる。加えて型をベースとした追加の造形なども容易である。
 だが、ブロンズや樹脂において、人間に見える表層を再現するには着彩する必要がある。故に肌の透明感の再現は困難である。そして、決定的なのはこれらの素材は毛を植えられないため、体毛を再現できない点である。産毛がないという点は、明らかに実際の人間とは一般的には異なるが、昨今の脱毛のような流れが逆に作品たちを当時よりもリアルなものに見せているということもあるだろうか。

 こうした素材に対し、現代における作品のマテリアルと技術変化は、ハイパーリアリズムに幾つかの展開をもたらした。例えば、やわらかなシリコンは、肌の凹凸やシワのような細部、透明感や、色味まで再現可能であり、毛を植えることができるため産毛を表現することも可能になった。トム・キュブラーの《Ethyl》(2001)や、カズ・ヒロの《Andy Warhol》(2013)、ヴァルター・カゾットの《Stringiamoci a coorte》(2017)、サム・ジンクスの《Woman and Child》(2010)を見れば、こうしたディティールの素晴らしさを存分に感じることができるだろう。

 

展示風景
photo by Kohei Matsumura

 他方、表面のディテールを再現するのとは異なる素材、方法でリアルな表現を試みるアーティストもいる。例えば、マチルダ・テア・ハイネは自身を模した彫刻を展示しているが、これはマネキンである。ダニエル・ファーマンは本文のはじめにも触れた壁に伏している女性の作品《Caroline》(2014)を展示しているが、この作品もまた基本はマネキンである。そして、今回の展示の中で最も特異な点は、ファーマンの作品だけは全く肌が露出しておらず、人に見えるために肌の質感を再現するということを一切行っていないという点である。それでもシルエットだけで人間と錯覚させるその効果は、ハイパーリアリズムの前提を覆すものである。
 また、グレーザー/クンツの《Jonathan》(2009)はこの展示の中では特異な事例であると言えるだろう。同作は、石膏で作られた車椅子に座る男の顔にプロジェクションをすることで、対象が実際に生きて喋っているかのように見せている。他の作品たちが対象の一瞬を捉え、形にしているのに対し、動的に変化する本作は技術によって可能になった新しいリアルな表現と言える。
 先述のように、ほとんどの人体彫刻は静止する様子あるいは一瞬を捉えていると言えるのだが、瞬間性に特化することで現実の動的なリアリティを表現するというプロセスもある。例えば、キャロル・A・フォイヤマンは、水から顔を出した瞬間のスイマーの姿を作品化する。その巧みな水滴の表現は、今まさに水面に上がってきた躍動感を感じさせる。マーク・サイジャンの彫刻は裸の男女の抱擁や、ホームレスの女性の虚な表情など、動的な瞬間性ではないが、私たちが普段目を背けてしまうような瞬間/対象を描き出す。

 

左から:キャロル・A・フォイヤマン《General's Twin》(2009-11)/《Catalina》(1981)
photo by Atsuhiro Miyake

 また、サイジャンの作品は、人間の置かれた環境によってリアリティというものが変化するということを想起させる。それは、「人々のリアリティそのものを表現」するハイパーリアリズムを含む、リアリズムに関する諸々の表現に通底する、「リアリティ」という概念への問いかけでもある。
 例えば、ロン・ミュエクや、ジェルコ・バジェスキの作品はサイズという観点からアプローチしている。怯える老人の背中が小さく見えるように、自身に溢れた普通の男の背中が大きく見えるように、実際の物質としてのリアリティと認識におけるリアリティとは、しばしば乖離するのだ。

 また人々を取り巻く環境とは、暮らしや立場を指すと同時に、社会通念や環境を指す言葉でもある。女性と冷蔵庫を一体化させることで、社会にあるジェンダー格差について問いかけるアレン・ジョーンズの《Refrigerator》(2002)。バナナという男性的なモチーフと裸婦を重ね合わせることでコマーシャリズムの中で消費される女性像について問いかけるメル・ラモスの《Chiquita Banana》。そして、既存の観念についてユーモラスに問い直すマウリツィオ・カテランの《Ave Maria》(2007)。彼らの作品は、社会に溢れる既存の価値観とそれに付随するリアリティについて、表現の中で問題提起をしている。

 私たちを取り巻く環境について、この運動が始まった1970年代と現代とで明らかに違う点は、デジタル技術を含む科学技術の発展だろう。エヴァン・ペニーの作品はイメージをフォトショップなどで加工し歪めた後、3次元に歪んだイメージを起こしてくることで、画像として世界を認識する意味を考えさせる。トニー・マテッリの《Josh》(2010)に表現されている重力を失ったような身体は、近年の宇宙開発によって拡張された私たちの新しいリアリティを思わせる。パトリシア・ピチニーニの作品は、遺伝子組み換えによっていつか生まれるかもしれない新しい生命のかたちを表象することで、私たちにとっての生命とは何かという根源的な問いを喚起する。それは、言い換えるなら「未来のリアリティ」を模索するものである。

 

左:エヴァン・ペニー《Panagiota: Conversation #1, Variation 2》(2008)/ 右:《Self Stretch》(2012)/ 手前:トニー・マテッリ《Josh》(2010)
photo by Kohei Matsumura

 本展における作品群は概ねこうした流れの中で捉えられる。だが、幾つか少し方向性の異なるものがある。
 一つ目はベリンデ・デ・ブリュッケレの《Elie》(2009)である。多くのリアリティ彫刻は生きている姿、生き生きとした様を表象する。だが、サイジャンが人々が目をそらすような状況を彫刻にしたように、彫刻だからこそ表現できる人間の姿もあるはずである。その一つが「死」である。それ自体は生ととなり合わせであり、私たちにとって当たり前のものであるはずだ。同作は生命に内包され死のリアリティについて問いかける。

 2つ目にファビオ・ヴィアーレの《Venere Italica》(2021)である。本作は新古典主義の有名な彫刻家であるアントニオ・カノーヴァの同名彫刻の大理石による模刻である。だが、その表面は発泡スチロールのように加工されている。故にマテリアルに関する誤認を喚起するフェイクマテリアリズムとでも呼ぶべき作品である。

 これまで触れてきた作品群からもわかるように、この展覧会には、いわゆるハイパーリアリズムの枠を超えた、リアルな表現を取り入れたコンセプチュアルアートや、視覚認識を揺さぶるような騙し絵的な作品も含まれている。したがって、タイトルである「リシェイプド・リアリティ」は、この展覧会の多様な作品群を的確に表しているが、一方で副題の「ハイパーリアリズム彫刻の50年」にはやや誤解を招く側面があることも指摘しておきたい。

 とはいえ、本展の本質的な意義は、現実そのものを問い直し、私たちの認識の在り方を揺さぶることで、日常の視点を再構築する点にあるのだ。 
 たとえば、ジェイミー・サーモンの作品は、表面的には極めて精巧であるにもかかわらず、あえてハリボテの裏側を見せることで、見かけのリアルがいかに脆く、表層的なものにすぎないかを露わにする。そこから浮かび上がるのは、私たちが信じている現実の不確かさである。
 そして、展覧会の最後にはサンティスィミによる《IN VIVO(M1)》(2013)が展示されている。生きた人間が眠ったままケースの中に閉じ込められているようなこの作品は、同展覧会において唯一触れることのできる作品である。展覧会を通して、多様な作品に出会い、既存の価値観から解き放たれた鑑賞者のリアリティは、自身の身体を持って対象に触れること、今そこに在ることを再認識することで現実へと着地する。

 

サンティスィミ《IN VIVO(M1)》(2013)
photo by Atsuhiro Miyake

 バーチャルリアリティやメタバースのように、フィジカルとは異なるリアリティの階層が生まれつつある現代。さらにフェイクニュースによって「リアル」が撹乱される状況も相まって、私たちの認識はかつてないほど不安定な地盤の上に立たされている。本展は、そうした時代における「リアリティ」という概念の危うさを鋭く照らし出す。 
 この非常にフラジャイルな世界の中で、それでも私たちは主観的なリアリティと対話をしながら、様々な存在や、彼らの持つリアリティとともにダンスを踊っていくしかないのである。

 

会場風景(視線の先には大阪・関西万博会場がある)
photo by Atsuhiro Miyake

 

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