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コラム

「Study:大阪関西国際芸術祭2025」見聞記|坂上 義太郎(BBプラザ美術館名誉顧問・元伊丹市立美術館館長)

コラム/column 2025-08-29
奥中章人作品写真「INTER-WORLD/Cocooner: Apparent motion of celestial bodies」

奥中章人《INTER-WORLD/Cocooner: Apparent motion of celestial bodies》

 

坂上 義太郎
BBプラザ美術館名誉顧問・元伊丹市立美術館館長

●はじめに

 1990年代以降、加速する国際化の中で現代美術が固定化、空洞化し、生活から遠くなり、歴史とも離れているのではないだろうか。
 私は、社会の価値観の多様化の中、私たち先人の築いてきた「文化・芸術の伝統」を継承し、社会事象をも作品へ映し出す作家たちが、「Study:大阪関西国際芸術祭」に集い、制作発表した多くの作品を観る機会を得た。
 大阪・関西万博の開催に合わせて、「Study:大阪関西国際芸術祭2025」が、世界20ヶ国余りのアーティストを迎え、「ソーシャルインパクト」をテーマに据え、文化芸術による経済活 性化や現在の社会課題などの可視化を目指し、大阪市内の各会場で観客との対話や出会いの場を設えていた。

 

●第1章 多様なる世界へのいざない  EXPO PUBLIC ART

 私は、今夏大阪市内の四ヶ所の会場を訪ねた。先ず人工島「夢洲(ゆめしま)」の万博会場に設置された幾つかのパブリックアートを紹介したい。コンセプトは、“多様なる世界への誘い” 。因みにパブリックアートとは、1960年代のアメリカで生まれた言葉であり、“公共空間の芸術作品”と読み替えることが出来るが、その意味は極めて曖昧でもある。
 大屋根リングを背にした森万里子の螺施状の《Cycloid Ⅲ》は、素材のアルミニウムが白く輝き、作品の上昇指向と共にメビウスの帯のようにも映えて清清しい彫刻作品だ。Cycloid(サイクロイド)とは、円がある規則のもとで回 転する時に描く軌跡の総称とのこと。
 序でながら、パブリックアートは立体造形作品のみを指すのではない。そんな一つの例がハシグチリンタロウの《anima harmonizer》と題した横長の壁画だ。題名は、「魂を調和させ、奏でる者」を意味する造語とのこと。黒をベースに白の塗料で、スピード感溢れる線描画には、作家が語る「塗料から生まれる生き物としての文字」が、一気呵成に白の塗料をして狂喜乱舞する景色のように映る。

 

田﨑飛鳥作品写真「森の道-青い森」

田﨑飛鳥《森の道ー青い森》

 作品設置場所に植樹された木々を前に、田﨑飛鳥による全長約13メートルの巨大壁面アート《森の道ー青い森》は、圧巻の虚実空間を生んでいる。私は、作品を鑑賞しながら、田﨑が語る「色は心が聞いている」という言葉を反芻していた。私たちは、直立する木木を前にした壁面へ描かれた木木を見詰めていると、不可思議な世界へ誘われていることに気付くだろう。
 今回のパブリックアートの中で、作品内に入ることが出来る《INTER-WORLD/Cocooner:Apparent motion of celestial bodies》(Cocoonerは俗語)は、 周囲へ異彩を放っている。楕円形の作品は、 一見繭を想起させる。空気で膨らませた奥行約14メートルの繭状の作品内に入って寝転ぶことにより、「空気や水や太陽を感じて欲しい」と作家の奥中章人は語る。さすがに連日の猛暑で、日中は入ることは叶わず、夕刻以降は入れる観客参加体験型作品だ。私は、特別に数十秒ほど中へ入れて貰った。早速寝転び上部を見上げると、何故か弾力性ある床面もあって母親の胎内にいるような錯覚を味わった。

 

檜皮一彦作品写真「HIWADROME: type_ark_spec2」

檜皮一彦《HIWADROME:type_ark_spec2》

 檜皮一彦の作品《HIWADROME:type_ark_spec2》は、遠くからでも白色と所所が光る立体造形だ。 白色に塗布された車椅子が積み上げられ、幾つかの車輪には、鈴が嵌められ、太陽の光を受け反射している。作家自身が、日常生活に車椅子を使用している。私が、健常者と体に障がいがある人との共生を願う制作意図なのかと考えながら作品内を注視していると、鳩がいることに気付いた。恐らく万博の会期中に、鳩が巣作りを行い生息しているのだろう。驚くと共に、 不思議な光景に心温まる感慨を覚えた。
 万博会場内で一際光彩を帯びたプライマリ ー・ストラクチュアの《Hard Boiled Daydream(Sculpture/Spook/Osaka)》の作者は、金氏徹平だ。作品は、彫刻的というよりむしろ反彫刻的だろう。カラフルで面的な材料の構築物は、色彩を平坦に塗布した表面処理により絵画的な効果をもたらしている。加えて重さをなくし、空間に拡散していく無重量性のような視覚性を強め、開放的な空間を創出している出色の作品だ。

 

BAKIBAKI作品写真「希望の系譜」

BAKIBAKI《希望の系譜》

 壁画の大作《希望の系譜》について、今芸術祭の公式カタログに、「浮世絵から漫画、そして席画から壁面へ。(中略)先人達から賜った希望が、万博の来場者との文化交流になることを祈願して」と作家のBAKIBAKIは記している。作品は、江戸時代に活躍した歌川国芳の《讃岐院眷属をして為朝をすくふ図》を下敷に、黒地上へ伝統的な和柄をサブカルチャーと融合させた作家のBAKI柄で描かれている。伝統の文様も駆使した画面は、新歌舞伎の一場面を見ているようだ。
 彫刻家の冨長敦也は西ゲート近くに、ハート形の五つの石を配置した。世界の五大陸から各々彫り出した石を、期間中万博の入場者と磨くことで、国や文化を超えた人類の恒久的な願いである。「愛」と「平和」の共有を意図した冨長。参加体験型の《Love Stone Project EXPO 2025》は、世界中の人々が磨くことで万博の記憶となり、石の輝きで心が繋ぐ世界を照らし出すだろう。
 華やかな万博会場内のパブリックアートたちは、時には記念写真の背景となり、繭状の作品内に誘ったり、五大陸の石を磨くといった設営により、公共空間で果たす彫刻アートの存在感を発揮している。
 各パビリオンに入場する観客の長蛇の列とは裏腹に、会場内のパブリックアートたちは観客に媚諂ってはいないことに好感を抱いた。

 

●第2章 人・命への考察―リシェイプド・リアリティ:ハイパーリアリズム彫刻の50年ー

海を挟んで万博会場の東にある大阪文化館・天保山(旧サントリーミュージアム)では、 ハイパーリアリズム彫刻の50年を辿る「リシェイプド・リアリティ」展が開かれている。
 本展は、ドイツの研究機関IKA(インスティテュート・フォー・カルチュラル・エクスチェンジ)が企画した巡回展で、27組39点のハイパーリアリズム彫刻の身体表現を通して人間の本質とは何かの再興を企画している。

 

「リシェイプド・リアリティ」展示風景
photo by Atsuhiro Miyake 

 ここでは、私が印象に残った作品を少し紹介したい。ドゥエイン・ハンソンの《Body builder》は、ベンチプレスの台に腰掛けている等身大の作品で、本物の人間と見間違うほどに精巧に作られている。ハンソンは、1960年頃から実在するアメリカ人の型を取り、ポリエステル樹脂やグラスファイバーで造形化している。作品は、目を伏せて物思いに耽る肉体美のボディビルダーから、理想化された アメリカン・ドリームの本質を表現していると共に、日常の倦怠感、虚無感が彫刻に漂っている。私たちは、作品のリアルさに思わず自身の姿を投映し、実像と虚像を往環してしまう。
 会場で一際目立ったフランス人のダニエル・ファーマンの《Caroline》は、壁に向かって立っている女性像だ。彼女の腕と頭はセーターの中に隠れており、上腕を壁に着けた姿から苦悩や絶望の瞬間を観客に想起させる作品だ。また後向きの姿が、私たちの想像力をより一層高める効果を造出している。
 女性像は、一人ぼっちの黙劇を演じているよ うにも覚えるし、永遠に何かを待ち受けているようでもある。
 彫刻のスケール感は、作品の大小では測れないことを実感させてくれるロン・ミュエク (オーストラリア出身)の《Untitled (Man in a sheet)》に多くの観客は沈思黙考することだろう。白いシーツに包まれた非常に小さな老人の表情からは、精神的孤独が漂い、知覚距離を体感させられる。インパクトのある小品だ。
 私たちは、人間という一つの意味を問い直さなければならないだろう。
 オーストラリア人作家のサム・ジンクスの膝を抱えて座り込む裸婦像 《Seated Woman》の髪には、天然毛髪が使用され、極めて高い技術が窺える。また、高さ73cmの人体スケールながら女性のか弱さや生命の儚さが静かに伝わってくる。沈思黙考を余儀なくされるポ ーズだ。市民社会の中で密室化している個人への問い掛けなのだろうか。
 同じくオーストラリア人作家パトリシア・ ピッチニーニの少女像は、異和感を覚えるような身体の毛深さだ。少女の両腕にはミュータントのような小さな生き物を大事そうに抱えている。凝視していると、人間とは何かという問いかけが私たちに投げ掛けられているのだと気付く像で、静諡さとあどけなさが伝わって来る。
 本展のハイパーリアリズムの軌跡を通覧して、多くの作家による精巧な人体表現から、人間とは何かを考察する機会を持ったのは私ひとりだけではないだろう。そして、私たちは、本物と紛らわしいばかりの彫刻群には、現実化するかも知れない不安を思わせるリアルさを感じるだろう。
 諄(くど)いかも知れないが、ハイパーリアリズムの人体彫刻群が、静諡な空間に佇むシーンを成し、安易な感想など弾き飛ばす存在感を放っている展示となっている。私は本展を通して、素材や手法は変わっても表現されている普遍的な人間の本質について沈思黙考を余儀なくされた。

 

●第4章 変容する街でのアートの可能性ーあきらめへんで。釜ヶ崎アートセンターー

 私は、何十年ぶりかで「釜ヶ崎」を訪ねた。「釜ヶ崎」と呼ばれる地区は、大阪市西成区 の北東部に位置し、0.62km2に約2万3千人の人口を有している。一方、人口の約4割が高齢者で、約845百世帯が生活保護世帯という数字が報告されている。そして、2021 年度の調査では、路上生活者の人が943人と報告されている。「釜ヶ崎」は、今も日雇い労働者や低所得者の人々が集まり、安価な住まいを求めて暮らしている街である。
 高度経済成長期には「日雇い労働者の街」として機能し、簡易宿泊所(ドヤ)や安価な 飲食店などが建ち並び、いわゆる「ドヤ街」 としても知られる。現在でも簡易宿泊所や日払いアパートなどが約74軒ほどが密集して いる。
 1966年の西成地区での暴動後、行政が中心となり「釜ヶ崎」のイメージである「労働者の街」から「福祉の街」へと移ることを念頭に「あいりん(愛隣)地区」という行政上の呼称を掲げた。
 そして、1970年の大阪万博に向けた会場建設や大阪の都市インフラ整備、関西圏の建設 ・土木事業などの労働力の担い手として多くの労働者が「釜ヶ崎」から従事した。
 ところが、バブル経済破綻による建設産業不況と建設現場の機械化による仕事の減少などで路上生活者が増加する。現在では、労働者の高齢化が進むと同時にインバウンドの影響から外国人観光客向けの宿泊所へと変遷している。
 その間、「釜ヶ崎」独自の文化やコミュニティが、地域の人々や多くのボランティア、支援者の人たちにより形成されてきた。今も社会課題と対峙し、支援活動に積極的に取り組んでいる個人や団体の存在は尊重されなければならないだろう。

 

kioku手芸館「たんす」展示風景

 始めにkioku手芸館「たんす」を覗いた。kioku手芸館「たんす」は、地域の女性たちの手仕事によるファッションブランドのショップだ。2018年に立ち上げた西成発の工房兼ショップでは、地域から集まった毛布・布を活用したオリジナル商品を展示販売している。先の大阪空襲に焼けず残った木造家屋をリニューアルした人情味溢れるショップだ。店名にあるように、ショップ内には幾つかの古い箪笥(たんす)が生活の営みを象徴するかのように佇んでいるのが印象的である。また、西成地域に居住する在日外国人との共同制作によるオリジナルウェアなどにも、手作りの温か味が縫われている。作り手と買い手のコミュニケーションの輪が拡がることを願いたい。

 

山王ハモニカ長屋「喫茶あたりや」

 次に山王ハモニカ長屋をリニューアルした喫茶あたりやへ向かった。ここでは、「まえとうしろ、まんなかとすみっこ」を標榜し、海外からの旅人や地域の住民らとお茶を飲みながら会話を楽しむそうだ。時には、釜ヶ崎 ゆかりのアーティストやアジア各地のアーティストたちの作品も紹介している。この空間が、地域の人々や海外の人々との交流を通じて個性あるアート空間として展開することに期待を寄せたい。

 私は久方ぶりに動物園前商店街を訪れた。その商店街にあるゲストハウスとカフェと庭 
釜ヶ崎芸術大学(ココルーム)に足を踏み入れた。そこでのスローガンは、「あきらめへんで。釜ヶ崎アートセンター」。一見、喫茶店 の装いの建物は、アートNPOココルームが運営に当っている釜ヶ崎芸術大学だ。地域の人々などの絵、詩、俳句、書、写真などの展示やゲストハウスといった具合の盛沢山の活動を2003年頃から行っている。アートセンター内には、ブックカフェやココルームのお部屋、詩人の部屋、俳人の部屋といったユニークな部屋名が名付けられている。

 

森村泰昌+坂下範征《Our Sweet Home》

 またココルームに集う人たちの「つくっている 」営為は、社会的、生活的という生きている環境や条件から成立しているとも言える。生活の場の意識を、アートの生成発展へ繋げて いる釜ヶ崎芸術大学の存在は大切な心の拠り所なのだ。
 取り分け庭に設えられた「釜大明神」は、2019年に地域の人々やボランティアの人々の共同作業で作られた井戸を祭る名称である。今も満満と水を湛える“心を繋ぐ(連帯)”の井戸と言って差し支えないだろう。何よりも、施設内の天井や壁に所狭しと描かれたり、貼られている多彩な作品は、地域との連帯を象徴するエネルギーのアートだろう。時流に翻弄されながらも歩む人々に敬意を表したい。

 

●第5章 東西南北、文化の交差する街ーRe:Humanー新しい人間の条件ー

 

金氏撤平《抽象彫刻のパビリオン》《海のパビリオン》他

 会場は、1970年万博の前年に建てられた「船場エクセルビル」だ。「船場」は、全国から 人と富と情報を集積された経済都市大阪として、金融・薬・繊維・輸入雑貨などを扱う多くの間屋で賑わっていた。
 「船場」は、北は土佐堀川、南は長堀川(現在の長堀通り)、東は東横堀川(現在の阪神高速南行線)、西は西横堀川(阪神高速北行線)で区切られた南北約2km、東西約1kmの地域のこと。
 会場のある周辺は、日本三大繊維問屋街の一つであったが、1970年万博を境に、経済や 情報の中心が東京へ移ったことや、IT革命によるオフィスビルの機能進化などの波で船場の街にも大きな転換が余儀なくされ、かつての賑わいに陰りをみせることになる。
 本展では、こんな背景を踏まえ、「これからの人間」「変わるものと変わらないもの」「より良い生き方」をテーマに挑んだアーティストたちの作品を展示していた。
 最初に出会ったのは、シュウゾウ・アヅチ・ガリバーの《甘い生活/乙女座》のインスタレーションによるV字型のベッドだ。ガリバーが長年取り組む「A.T.C.G」シリーズは、 DNAを構成する塩基――アデニン(A)、チミン(T)、シトシン(C)、グアニン(G)を示す4英字の配列を様々な形に組み合わせて作品化している。
 殊に最初の展示のV字型の二つのベッドから、人間の生殖行為に遺伝情報の交換を見立てているのかと思った。また、展示室の壁面へ黒板を設え、作家自身がチョークによる無数の升目内に書き込んで英字を消す行為を通して、思考の痕跡を提示し、創造への道程を象徴しているのだろうかとも読み取れる。
 階上の展示室内の作家𠮷田桃子の大作《E9 equip,after the banquet》(454.6cm、縦181.8cm) が、私を迎えてくれた。
 𠮷田が描く室内の人物像と円卓上の多くの飲み物のビンなどには、衣・食・住といった 今日の生活スタイルが浮かぶ。
 だが人物の表情から、今日の情報化や消費社会の現状への懐疑的な視線や時代に流されていく世代の拡がりへの感慨と言ったことが看取できると言っては穿った見方になるのだろうか。
 𠮷田のユニークな制作プロセスは、先ずイメージを基にキャラクターの立体模型や背景を制作し動画に収め、そこから抽出した1コマを下絵とするそうだ。このプロセスを経て、𠮷田が現実世界から意識的に距離を置き、自身のイマジネーションで「現代の肖像画」を目指している創作姿勢が作品に投影されている。
 13のパビリオンをインスタレーション(空間芸術)化した金氏徹平の作品群は個性派揃いだ。金氏は、新作と旧作を十数点のパビリオンとして会場内に布置した。幾つかの作品名を列記すると、「地獄のパビリオン」「抽象絵画のパビリオン」「抽象彫刻のパビリオン」「新聞工場のパビリオン」などだ。
 それらのパビリオンは、万博とは無関係で、金氏のアイデアの集積であり、個人的な歴史、時間、文化的潮流といった関心事を造形化している。日本を代表する現代美術家・金氏の機知に富んだ表現の幅広さを実見できる構成だった。
 私は1994年に大阪にあったギャラリーKURANUKIで開かれた石原友明の個展『美術館で、盲人と、透明人間とが、出会ったと、せよ。』を観た。その折のリーフレットに、石原が寄せた文章の末尾の「美術館の扉は開じられ、恋愛が始まる」が、今も忘れられない。

 

石原友明《I.S.M.-代替物 #2》

 1980年代の石原は、絵画的な背景幕の前に、自身の等身大ヌード写真を使用して芸術や知覚の根源を追っていた。90年代頃からは、レンチキュラーを使った3D絵画や写真のコラ ージュなどにより独自の表現スタイルを発表。
 今回は、《I.S.M.-代替物》《透明な幽霊の複合体》の2つのシリーズを展示した。《I.S.M.-代替物》は、3Dスキャンした自己の身体データを基に3Dプリンターで出力したパー ツを積層した立体自写像だそうだ。《透明な幽霊の複合体》では、自身の毛髪をスキャンしてベクターデータへ数置変換、フィルム出力後、立体的な印画紙に焼付け、キャンバスへプリントしたものだ。
 これらのシリー ズの何れもが、作家自身の身体が素材となり、アナログからデジタル、画像、写真、絵画へと次元変換を行ったテクノロジーの産物かも知れない。
 私たちは、今日のAI時代の渦中にあって、これからの人間像を考察する上で、現在の社会へ新たな視点で創作する石原作品の展開には目が離せないだろう。

 

川田知志《太郎の色とカタチ×パブリック》

 一方、公共空間の壁画制作に意欲を示している川田知志は、1970年大阪万博の象徴となった岡本太郎の「太陽の塔」にインスピレーションを得て、フレスコ画《太郎の色とカタチ×パブリック》(2023年)を滋賀県立陶芸の森で発表していた。
 川田は、岡本太郎の造形表現や原色のダイナミズムに惹かれ、変容する現代社会において「移動」や「変化」を考える機会を作品へ 託した。
 今回、その作品をストラッポという技術により陶芸の森から船場エクセルビルへ移動させて展示した。私には、川田の壁画に、プリミティブで生命力溢れる土着性を現代と結びつけているように覚えた。
 写真と映像による《AMA(二匹の出会い)》は、現代社会に民族・人種・国家や人間の 生と死といったことを問題提起しているのは金サジだ。
 作品名の《AMA(二匹の出会い)》は、「ウイルス」をキーワードとし、金は「ウイルスには人間の進化と、他者化の歴史の記憶が刻まれている」と述べている。
 更に金は、生物の進化、感染症の歴史、民俗学、解剖学、文化人類学などの様々な分野の知見を取り入れながら、作家独自の物語世界を通じて個人や集団が「他者」とどう向き 合い、共存していくのかを写真や映像に注入している。私たちは、作品を通して人と人との違いや多様な価値観の共存を認識し、共生する社会への理解を共有しなければと感じるに違いないだろう。
 もう一つのコラボレーションによる作品《奇跡の森 EXPO'70ー生成AIによる映像Ver.2(映像インスタレーション)》は、畑祥雄+江夏正晃+江夏由洋による必見の展示コーナーだろう。

 

畑祥雄+江夏正晃+江夏由洋《奇跡の森 EXPO'70ー生成AIによる映像Ver.2(映像インスタレーション)》

 当初、1970年大阪万博の会場跡地はビジネスセンター建設が予定されていた。だが大阪 の急速な都市化と環境問題への社会的関心が高まり、「緑に包まれた文化公園」へと舵が切られた。畑祥雄は、国内最大級の都市公園(通称)「万博の森」を2021年から写真撮影を始める。それらの写真作品と、江夏正晃(音楽)や江夏由洋(映像)とのコラボレーションによるAIが未来予測した2070年の「奇跡の森」を作品化した。ある意味「縁に包まれた文化公園」は人工的に森林化された。自立循環が可能な森の成立には100年を要すとも言われる中、今では「万博の森」は多くの昆虫や野鳥が生息する公園となった。
 地球の温暖化、大気汚染、環境破壊が深刻化する今日。都会から緑が消えゆく中、今回の「万博の森」の映像は、如何に生成AIを取り込み制作された作品と雖(いえど)も私たちに森林に生息する生物の存在や人間らしい営みを示唆してくれる。
 そんな事から、必見のコーナーだと述べたのである。
 本会場で一際人間エネルギーに満ちた展示は、「釜ヶ崎芸術大学」。通称「釜ヶ崎」は、かつて高度経済成長期の大阪を支えた日本最大の寄せ場として知られている。現在は、時の流れと共に労働者の失業や高齢化などの問題が山積している。
 近年では、インバウンドもあり、外国人居住者の増加や観光客の誘致など、新たな課題も起っている。こんな状況下で、釜ヶ崎を再チャレンジの街と捉え、地域社会と深く結びついたアートへの取り組みが生まれる。
 「学び合いたい人がいれば、そこが大学」という理念の下、2012年にNPO法人「こえとことばとこころの部屋(ココルーム)」が開講した。“出会いと表現の場” としての「釜ヶ崎芸術大学」は、地域住民のみならず、国内外からの旅行者やアーティストなど様々な人々との交流する場にもなっている。
 因みに、ココルームは国際交流基金から「芸術・文化活動を通して、日本と海外の市民同士の結びつきや連携を深め、互いの知恵やアイデアを交換し、ともに考える団体」として認められ、2020年度の地域市民賞を受賞している。
 このNPO法人ココルームの活動のメンバ ーの一人で詩人の上田假奈代氏の存在は大きい。 上田假奈代氏が、2012年に立ち上げた「釜ヶ崎芸術大学」は、働きながら生活をしている地域の人たちに呼びかけ、領域横断的で多様な活動を現在も続けている。
 改めて芸術(ART)を、広辞苑で引くと「一定の材料・技術・様式を駆使して、美的価値を創造・表現しようとする人間の活動及びその所産。造形芸術、表現芸術、音響芸術、 また時間芸術と空間芸術など、視点に応じて 種々に分類される」とある。
 するとアートとは「つくる」という行為のことだろう。そして、意識したり、無意識に 「つくる」ことも含まれるだろう。拡大解釈すると、私たちの日常の「衣」「食」「住」もアートではないだろうか。
 今回、その取り組みから生まれた絵、詩、書、音楽、芝居、身体表現などが展示され、展示室全体を熱いメッセージで埋めつくしている景色に共鳴した。

 

●結びに

 今回のStudy:大阪関西国際芸術祭は、「アートとアートでないものの境界とは。」「ヒトはなぜアートを見たいのか。」「アートは、社会課題に対し無力か」などのスローガンを標榜し た展示を各会場で繰り拡げている。
 Study:大阪関西国際芸術祭の展示会場での作家の組み合わせによる作品群は、展示場所の歴史と人々の記憶や思考を喚起させる内容といっても過言ではないだろう。
 今日の“分断の時代”にアートに何が出来るかを、多くの作家が、作品の多くに「人間と何か」を問い掛けているシーンに、明日への期待を思うのは私だけではないだろう。
 何よりも“分断の時代”に、「アートに何が出来るか」と新時代への扉を開けたStudy:大阪関西国際芸術祭実行委員会の慧眼に敬意を表したい。
 併せて、万博会場以外の会場選択や展示姿勢には、お祭りムードの万博会場とは異なり、観客一人ひとりへ人間とは何かや社会的事象と言った重いテーマが反映されていた。
 このように、万博会場とは対称的な芸術祭を企図した関係者の芸術的で高度な課題を据えた取り組みを高く評価したい。

 

[註] 本文の執筆に際し、参考にさせて頂いた図録や書籍から多くの示唆を頂いた。

石原友明『美術館で、盲人と、透明人間とが、出会ったと、せよ』ギャラリKURANUKI 1994年
吉村元男『吉村元男の「景」と「いのちの詩」』 京都通信社 2013年
冨長敦也 『石・Stone』一穂堂ギャラリー 2024年
公式カタログ『Study:大阪関西国際芸術祭 』株式会社アートローグ 2025年